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 下記論文は日本英文学会中国四国支部第
66回大会(平成251019日、於山口大学)で口頭発表した原稿に加筆・修正を加え、平成265月に『中国四国英文学研究』に投稿しましたが、同年722日付で掲載不可となりました。
 本研究の狙いは標記タイトルの論証がすべてでありまして、個別にヘレニズムを、あるいはヘブライズムを研究対象としたものではありません。本稿の起筆に先立ち、既存研究の有無を、Webcat、Webcat Plus、本稿引用文献の書誌、インターネットなどで調べましたが、本論題にかかわる研究は見つかりませんでした。ゆえに執筆に取り組んだのですが、投稿規定の「長さの上限は、14,400字」に非常に苦慮しました。山口大学での口頭発表の際、冒頭で、「テーマが広範囲に及びますので、ハンドアウトの縮小に努めましたが、それでも9ページの長さになりました」と断りを申しあげました通り、テーマが大きいのが実態です。

 現在、本稿への修正を済ませました。近い将来、加筆し出版します。出版の実現までに、まだもう少し日数を要しますのでとりあえず不採用となりました原稿をネット上で公開しておきます。
 なお、本稿の梗概は日本英文学会発行の『第86回大会Proceedings』(2014年9月16日、pp. 261-62)に掲載されています。
 著作権は著者に帰属します。無断引用およびコピー・アンド・ペーストは禁止します。               平成
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ヘレニズムがヘブライズムを生んだ

犬のディオゲネスが種をまき、テント屋のパウロが咲かせた世界主義 [1]

 Hellenism Gave Birth to Cosmopolitan Hebraism:
Diogenes the Dog Sowed a Seed of Cosmopolitanism, and the Tentmaker Paul Made It Bloom


寺 内  孝

はじめに

 哲学はギリシア人(Greek)に始まり、ギリシア(Greece)哲学は自然学、倫理学、論理学からなる(列伝、上、1424)。この哲学の中で世界主義的ヘレニズム(Hellenism)が起り、そのヘレニズムを少数のユダヤ教徒(Judaist)が取り込んで世界主義的ヘブライズム(cosmopolitan Hebraism)のキリスト教(Christianity)を生み、[2] ヨーロッパ(Europe)思想の2大源流となった。本稿ではその源流の生成を考察する。

1 ギリシア時代――世界主義発生

1)ギリシア人の「差別觀」

449年、ギリシアはアテナイ(Athens)中心にペルシア戦争(the Persian Wars, 500449)を戦い、勝利する。その戦勝でアテナイ人はペルシア人を含む異民族を蔑視するようになる。蔑視の事象はギリシア語バルバロィ」(β?ρβαροιbarbaroi;英barbarianの語義に顕著である(出隆、16f.)。同語は元非ギリシア民族を意味したが、ギリシアの勝利後、ギリシア人に蔑視された異民族とペルシア人を指すようになる(出隆、16f.)。例えばヘロドトスHerodotus)は、『歴史』(前440頃)の最初の6巻で「バルバロィ」を非ギリシア民族の意で用いたのに対し、第7巻以後ではしばしば異民族蔑視を含意させ、「ペルシア人」の同義語としても使用する。ヘロドトスの同時代人エウリピデスもアウリスのイーピゲネイア』(Euripides, Iphigenia in Aulis. 410 BCギリシア人はバルバロイの支配者たるこそ適はしと、ギリシア人の華夷的差別観を表す(出隆、17)[3]

次の世紀のアリストテレスも『国家学』(Aristotle, Politics. c. 350 BCで、エウリピデスの上記箇所を引用しながら差別観を露わにする(出隆、17)。[4]

2)ギリシア人の「差別觀」打破、世界主義へ

ギリシア人の「差別觀」を打破するのがギリシア人一派の国マケドニア(Macedonia)のアレクサンドロス大王(Alexander III)である。彼は王子時代、父フィリッポス2世(Philip IIと共にアテナイ・テーベ(Thebes)連合軍と戦い、前336年、諸ポリス(前700年代1000以上存在)を壊滅させる。同年、彼は王に即位し、コリント(Corinth)でソクラテス(Socrates)の孫弟子、キニク(犬儒)派(the Cynics)の代表格でギリシア植民市シノペ出身の、80歳近い哲学者、犬のディオゲネス(Diogenes)に会う。ディオゲネスは富・名声・家柄を軽蔑し、ぼろ衣をまとい、食糧入りの頭陀袋をさげ、大甕(おおがめ)(酒樽)に住み、自らすぐれた種類の「犬」と呼ぶ。彼は両替商の子で、若年時、通貨粗悪改鋳のかどで祖国を追われ、奴隷に売られた経歴があり、自分自身を「祖国を奪われ、国もなく、家もない者。日々の糧を物乞いして、さすらい歩く人間」と。他者から何国人?と問われ、「世界市民(コスモポリテース)だ」(列伝、中、162)[5] これが「世界市民(主義)(cosmopolitan[ism])の概念の起源とされる。彼はまた「唯一の正しい国家は世界的な規模のものである」と(以上、列伝、中、 127f., 137, 162;山川、178f.ナド)。大王は後に、自分がアレクサンドロスでなければ「ディオゲネスになりたいと思うだろう」と述べたようだ(列伝、中、23)。

大王は前334年東征開始、前324年ペルシアの首都スサ(Susa)へ帰還し民族和合の大義で集団結婚する(英雄伝、九、96104)。他方、彼の兵士たちも混成部隊で混ざり合い、土着女子と結ばれ、多数の混血児を産む(西洋史、48)。

プルタルコス(Plutarch)はその大王について、『倫理論集(モラリア)』(100)の「アレクサンドロスの幸運又は特性」でこう論述する。彼は全世界の調停者を任じていた立場上、師アリストテレスの助言、即ちギリシア人には友人・親族の気遣いを示しても異民族には動物か植物に接するように振舞えばよい、を諸民族安定支配の観点から拒否すると共に、不服従者には武力で威圧しながら「全世界の全民族を一にして行った。」と(出隆、10f.)[6] 出隆はその大王を評して、ギリシア人の「華夷的な差別觀を全く没却した四海同朋的世界主義の理想を抱き、これをその廣い世界の諸民族の間に實現していったもののやうである。」(出隆、10;大事典、975f.も参照)。

アレクサンドロス大王の死(前323)後、ディアドコイ戦争でマケドニア貴族の3部将、プトレマイオス(Ptolemy I, Egypt)、セレウコス(Seleucus I, Syria)、アンティゴノス(Antigonus I, Macedonia)が勝ち残り、各自が「ギリシア人の王朝」(1マカ110)を開く。これら3王朝中で最長命はエジプトだが、前30年、同国は共和制ローマ(Rome)に滅ぼされ、ギリシア時代は終焉する。この間の約300年間がヘレニズム時代である。

「ヘレニズム」という語は、19世紀の歴史学者ドロイゼン(Droysen)の造語で(用語

集、22)、彼はその語を「Hellene(古代ギリシア人)」から採ったようだ。同語は辞書的には、世界主義的な古代ギリシャの文化・精神・思想・風習・芸術と、その模倣・採用をいう(研究社新英和;OEDナド)。他方、ドロイゼンはヘレニズム文化を、ギリシア文化とオリエント文化の融合の結果生じたギリシア風の文化と捉える(ケスター、上、55ナド)。

 ケスター(Koester)は言う「ヘレニズムの文学はもはや人間を特定の国家や都市の成員とは見なかった。」(ケスター、上、132)。ヘレニズム時代は世界主義的ギリシア精神の時代なのだ。哲学界の世界主義をいえば、ディオゲネスからクラテス(Crates)へ、クラテスからゼノン(Zeno)へ伝えられ(列伝、上、22、中、183ff.)、ゼノンはストア派哲学(Stoicism)の祖となり、そのストア派が世界主義をローマ時代へ伝える。ゼノンの著書は残存しないが、上記「アレクサンドロスの幸運又は特性」にゼノン著『国家』への言及があり、それによるとゼノンは「現世の住民は[・・・]皆が一共同体と一政策とからなると考え、一共同生活と、全体に共通する一秩序を持つべきである」と主張した、と。[7] そのゼノンを、出隆は評して「ゼノンの著述のうちに、アレクサンドロス大王に始まる新時代を反映する世界主義的な家理想が掲げられてゐたと信じられる。」(出隆、66)。アレクサンドロスもゼノンも「世界主義」を理想としたのだ。

 ストア派第3代学頭クリュシッポス(Chrysippus)は膨大な著書を著したが、何も残存しない。だが、紀元前後のユダヤ人哲学者フィロン(Philon)によると、彼には「宇宙の国民(コスモポリーテース)」「彼[原書の人間]にとっては宇宙が家であり、国(ポリス)であった」の言及があったと見られる。[8]

ヘンゲル(Hengel)は言う「世界市民こそがストア派によって精神的共有財産とされた教養人の理想であった。」(ヘンゲル1478)。文学も哲学も「世界(市民)主義」の時代なのだ。

 

2 ギリシア時代のユダヤ――ヘレニズム的世界主義浸透

アレクサンドロス大王死後、ユダヤは「ギリシア人の王朝」の支配下でヘレニズム世界主義が浸透するが、他方で律法主義も強固に存在する。

301年エジプトがユダヤを征服し、ユダヤの公用語はギリシア語となる。エルサレム(Jerusalem)駐在の役人、兵士、商人たちがギリシア語で世界主義的ヘレニズムを持ちこむ。前260年頃からはディアスポラ(Diaspora)のユダヤ人豪族トビヤ(Tobiah)と

ヨセフ(Joseph)の父子もヘレニズムを伝える。彼らはヨルダン(Jordan)川東南のアンモン(Ammon)で祖先から大土地を引きついだギリシア文化愛好者(ヘレニスト)で、「律法」を「厳格に守ろうとしなかった」(ヘンゲル259f.)。

当時のエルサレムのヘレニズム化現象は前200年代末成立の「伝道の書」に反映され、そこで読み取れる主意は「祈りは殆ど無意味」、「信心と倫理は世渡りの事柄」である。著者の「批判的標的」は「ひとえに旧約聖書」であり、その批判精神こそ「ギリシア的思考」の反映である(ヘンゲル1198211;ヘンゲル2193)。他方、やや遅れて「シラ書」が現れ、著者のベン・シラ(Ben Sira)は律法から離れようとする「ユダヤ人上層階級のヘレニストたち」、すなわちトビヤ家とその周辺の人たちと「対決」する(ヘンゲル1250433485;ヘンゲル2196)。

 前198年、シリアがパレスチナ(Palestine)の領有権をエジプトから奪う。同国にアンティオコス4世(Antiochus IV, 175-164が登場した頃、ユダヤのヘレニズム化は「既に深く進行」し(旧約、1108)、ある人々は「周囲の異邦人と手を結ぼう。彼らと関係を断ってから万事につけ悪いことばかりだから」と説く(1マカ111)。そのヘレニズム化を、大祭司ヤソン(Jason)と次の大祭司メネラオス(Menelans)が一層加速させ(2マカ49ff.423ff.)、さらにメネラオス時代の前16712月、アンティオコス4世が「すべての人々が一つの民族となる」ことを求め、領内全域に勅令を発し、各自の「慣習を捨てるよう」命じ(1マカ141ff.)、結果、「異邦人たちは皆」従い、「イスラエルの多くの者たち」も「律法を捨て」る。ユダヤはこうして「異邦人と手を結」ぶ世界市民化を体験する。この経験が後述の「教会」発生に何かの効力を持ちえたことはあり得るだろう。

シリアがパレスチナの覇権を獲得したころ、ユダヤに律法固守のハシディーム(「敬虔な人びと」)が現れ、前100年代中頃その中からエッセネ派とファリサイ派が派生する。同じころアンティオコス4世のヘレニズム化に抵抗する最古の黙示文学「ダニエル書」(Daniel, c. 185-165 BC)が現れ、さらに166年、祭司家系のハスモン家がアンティオコス4世の棄教命令に抗い蜂起する(マカベア戦争)(1マカ2.1ff.)。142/1年、ユダヤはエジプトとローマ支援下で、内紛と財政難のシリアに勝利、独立宣言、ハスモン家シモン(Simon)が大祭司に就任、民族統治者にも就き、ハスモン朝を開幕する(1マカ1334ff.;旧約、913)。ハスモン朝は前37年までつづくがその間、統治者・王が、神殿の大祭司を兼ね、初代シモンは措くとして、後継の統治者たちは律法を軽んじ、ヘレニズムへ回帰する(エールリッヒ、109f.;ヘンゲル2188198ナド)。だが他方で、律法固執のファリサイ派、サドカイ派なども根強く存在する。

 

3 ローマ時代――世界主義健在

63年、共和制ローマ(前50927)がユダヤを征服、前37ハスモン朝最後の王・大祭司アンティゴノス斬首、同年、ローマ軍がエルサレム占領、ハスモン朝終焉。30年、ローマは地中海世界を制覇する。ローマの英雄たちはアレクサンドロスやゼノンやアンティオコス4世の‘全世界の全民族を一つに’を共有したであろう。それなくして世界制覇はなく、諸民族の安定支配は成り立たないからだ。

ローマ時代ではあるが、ヘレニズム(ギリシア)化は強化の道をたどる。教養あるローマ人は皆共和制後期、ラテン語と同様にギリシア語を話したからである(ケスター、上、442f.)。ではローマ時代、ヘレニズムの世界主義がどう維持されているか、4資料で明らかにする。第1ストア派(的)と分類されるキケロ(Cicero)は『トゥスクルム荘対談集』(Tusculanae Disputationes. c. 45 AD)で「ソークラテースは、どの国に属していると主張するかと尋ねられたとき、『世界に属する』と答えた。というのも、彼は自分が全世界の住民であり市民であると考えていたからである。」(第537)。[9] 2、キケロから約100年後、プルタルコスは『倫理論集(モラリア)』の「追放について」(§v)で、「ソクラテスはもっと上手に、アテナイの人でもなく、ギリシアの人でもなく、[・・・]『世界人』であると語っている。」(『倫理論集(モラリア)288)。[10]

上記キケロとプルタルコスは同様のことを言っている。『倫理論集(モラリア) 7』の訳者、田中龍山氏によると、こういう証言は「現存するソクラテス自身の言葉としてはどこにも見出されない。」(288頁)。恐らく長年月の間に何かの誤解・混同が生じたのであろう。だが拙論ではそういう議論に参入しない。要はこの時代、「世界市民」の概念が通用したという証拠が得られればよい。

3プルタルコスと同時代人のエピクテトス(Epictetus)は『人生談義』でまたもや上述の著者と同趣旨の証言をしている。「彼[ソークラテース]は、どこの人かと訊ねた

人に対して、[・・・]世界市民であると答えた。」(第19章)[11] 4はディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』。本書の成立時期は、2世紀末ないし3世紀初期前半の早い時期以降と見られ(列伝、下、「解説」35357頁)、この著者が犬のディオゲネスの「世界市民(コスモポリテース)」を書き留めたのだ。

以上、4書で「世界市民」を提示したが、加えて、ストア派のクリュシッポスに関わる、上述のフィロン証言も付加されてよい。ローマ時代、「世界主義」は健在、歴史の必然であろう。

ディアスポラとはバビロン捕囚後のユダヤ人の離散(地)をいう。主要ディアスポラはアレクサンドリア(Alexandria)、アンティオキア(Antiochia)、ローマなどでほぼ地中海全域に拡散する。これらの地域では「ヘレニズム的ユダヤ教」(旧約、1075ナド)が存在する。タイプは一様でないが、1、異教への同化へ導く混交主義的傾向を示すもの、2、ギリシア的教育を経て律法の字義的意味を解消するもの、律法を厳しく批判するもの(ヘンゲル1、485491)、3アレクサンドリアのフィロンのように、「異教からの改宗者に対してまったく割礼を要求しなかった」(グッドイナフ、246)、などがある。ディアスポラでは律法主義がくずれ、「周囲の異邦人と手を結ぼう」とする世界市民化の動きが顕在化しているのだ。

 

4 ローマ時代のユダヤ――世界主義的ヘブライズムの成立

ローマ時代、世界主義的ヘレニストが広く存在したが、ユダヤは異界。ユダヤには神ヤハウェYahwehモーセMoses;前1250年頃の人)に口述したとされる律法があり、絶対不可侵。[12] 律法は元来、口伝であったが、第2神殿再建(前520年頃)後の前400年頃から前300年代中頃までに文書化される(旧約、1188-921356ナド)。律法の特徴はこうだ。(i) 選民思想。イスラエル民族は「全能の神」、「(しゅ)すべての民の中から「選びした「宝の民」と(創1章;申76)。(ii) 独善的排他主義。「主」が「わたしをおいてほかに神があってはならない。」と命じ、「七つの民」の追放をいい、彼らが不従順なら「滅ぼしつく」せと命じ、彼らとの「協定」も「縁組」も禁止する(申71ff.)。この戒律を前提に、エズラ(Ezra)の「聖なる種族」(ユダヤ人)の「忌まわしい民」(異民族)との結婚・同盟の禁止、異民族の妻子との絶縁の指示があり(エズ910章)、ネヘミヤ(Nehemiah)も同様の指示をする(ネヘ92131ff.1323ff.)。[13] ゆえにイエス(Jesus)時代、「ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。」となる(使1028)。(iii) 複雑厳格。律法には十戒以外に諸規定が「600以上」あり(荒井、1007)、違反行為は「主」への「冒涜」、「その人は民の中から断たれる。」(創1714;出3114ナド)。(iv) 「汚れと清め」の思想(レビ15章ナド)。動物に「清い動物」と「汚れた動物」があり、前者は食可、後者は不可の細かい食物規定がある(レビ111ff.;申143ff.。また、イスラエル民族は「聖なる(国)民」で、「諸民族の汚れ」(エズ621)をいい、「すべての異民族」からの「清め」をいう(ネヘ1329f.)。ゆえにユダヤ人は外国人と交わらず、混血を拒否し、世界市民化を忌避する。そのユダヤを、ローマの歴史家タキトゥスは「彼ら以外のすべての人間には敵意と憎悪を抱く。」(タキトゥス、270)。

ハスモン朝滅亡後ユダヤはローマ支配下でヘロデ(Herod)大王(位前37‐前4)が統治するが圧政と恐怖政治で民衆の恨みを買い、死後、社会秩序は乱れる。6年、ガリラ

ヤのユダ(Galilean Judas)がアウグストゥス(Augustus)帝の「住民登録」に武力抵抗し独立を叫ぶ(使537)。この動きに、ファリサイ派のザドク(Pharisee Zadok)が共鳴し、ゼロテ党(Zealot)、つまり「神のために熱心な者」を結成し、「神の国」の接近とメシア支配の到来をいいながら乱に加わる(クルマン、12;新共同訳、裏頁37)。民衆は「メシア希望に非常に強く動かされ」(ブルトマン、23)、「メシアを待ち望」む(ルカ315)。ユダヤにはメシア・神の「助け」「救い」があるとする信仰があるのだ(戦記370代下3211、エレ212)。メシアには「神の国」の具現者のメシアと、「政治的解放をもたらすメシア」(新共同訳、裏頁41;代下3211;エレ2110)とがあり、ユダヤの大勢は後者の出現を信じる。ユダの乱は鎮圧されるが、その主張は「急速に進展」(古代誌614ff.、ユダヤ戦争の「原因を作」る「主な勢力」になる(新共同訳、裏頁37)。

イエスは2728年頃公活動を始め、メシアを意識するが(マタ1620ナド)「政治的救済者」は拒否する(ヨハ615)。彼は「安息日」破りをするが(マコ223ナド)、「律法」の「廃止」ではなく「完成」をいい(マタ517f.)、12弟子の宣教派遣に際し「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人(the Samaritans)の町に入ってはならない。」(マタ105f.)と命じ、神殿から商人を追い出し(宮清め)(マタ2112ナド)、神殿を「わたしの父の家」(ヨハ215f.)と呼ぶ。イエスは純粋なユダヤ教徒と評価できる。彼は30年ごろメシア僭称者として磔刑に遭う。

ヘレニズム時代(前323-30)末期、ピュタゴラス主義が「再び出現」し(ケスター、上、488;シェンク、99-100)、エッセネ派――「ピュタゴラス(Pythagoras)がギリシア人に説いたような生活様式」(古代誌5117)を採る――が活気づく。彼らは高潔高徳を尊び、所有物は共有する集団で、その中核はクムラン(Qumran)派(死海派)であるが、他に在俗会員「4000人以上」がユダヤのどの町にもいる(古代誌619ナド)。

洗礼者ヨハネは「禁欲的な生活」のゆえにエッセネ派の一員」か「クムラン教団」の関係者と見られたし(大事典、1101)、イエスが弟子たちと共にした「食事」は「エッセネ派の食事と非常に類似したメシア的祝宴となった。」(ケスター、下、133)。「死海派と初期のキリスト教との間に、教義と共同体の組織について著しい類似が見られる」(ジュニア、352)。このエッセネ派と世界主義的ヘレニストの存在は、ユダヤ教徒の中の幾らかを刺激せずにはおかなかったであろう。

「世界主義的ヘブライズム」はユダヤ教の本流から出た思想ではない。彼らは2度のユダヤ戦争(66-70132-135)で歴史の表舞台から消え、再浮上するのは1948年イスラエル共和国の独立宣言においてである。世界的ヘブライズムの興隆はイエスの弟子たち少数のユダヤ教徒に負う。

イエス死後、ペテロ(Peter)がイエスこそ「メシア」(使222)と宣明する。ここには重いメッセージ、“同朋よ、メシアはもう現れた、熱を冷ませ、ローマ軍に踏みつぶされるぞ!”が込められている。ペテロたちには「イスラエルのために国を建て直」す意志があったのだ(使16)。すぐに「三千人ほど」が集まり、持ち物共有のエッセネ派的共同生活を始める。原始「教会」の、即ち「世界主義的ヘブライズム」のキリスト教の発生である。彼らは神殿に日参するが、ユダヤ教団から自立する「ナザレ(じん)の分派」である。

32年ごろ教会に「ギリシア語を話すユダヤ人」(ヘレニスト)たちが加わる。その1人ステファノ(Stephen)は仲間に讒訴され投石で殺害される。ユダヤ教徒サウロ(パウロ)は彼の殺害に賛成し殺害現場にいた(使71f.81)。

ステファノ殺害の日、ユダヤ教団が「教会」へ「大迫害」を加える。ヘレニスト信徒のフィリポ(Philip)は「サマリアの町」へ下り、「キリストを()べ伝え」る(使85)。そこへエルサレムの教会からペテロとヨハネ(John)が派遣されてきて、彼らも「サマリアの多くの村で福音を告げ」る(使814-25)。イエスの命令違反である。だが、それなくしてユダヤは「周囲の異邦人」と「手を結」べない。選民思想破棄、世界市民化であり、教会内で一定の合意があったのだろう。フィリポはその後、ガザ(Gaza)への大路で「外国人」のエチオピア人(Ethiopian宦官(かんがん)に「洗礼」をさずける(使826-39)。律法破りである。この行為が、いつ誰の権威で行なわれたかは不明だが、フィリポは律法を恐れないヘレニスト、世界市民である。

パウロは33年ごろ、シリアのダマスコ(Syrian Damascus)近郊で回心、天上のイエスから「異邦人」にもイエスの「名」を伝えるよう選ばれる(使91f.)。「事物を真にあるがままに見る」ヘレニズムの観点からすれば受容できないが、[14] ヘブライズムは宗教、その天啓はパウロ神学に属する。イエスの命令「異邦人の道に行ってはならない。」の打破なくしてユダヤの孤立は破れず、世界市民化はあり得ない。パウロは暗殺の危機に晒され、35年頃ダマスコ城外へ(使923f.)、36年か38年頃エルサレムへ上り(ケスター、上、152)、ペテロ宅訪問、15日間滞在、イエスの兄弟ヤコブ(James)とも会う(使926-28;ガラ118-20)。律法、異邦人宣教、亡国史が話題に上ったであろう。パウロは再び命を狙われ、生育地キリキア(Cilicia)の州都タルソス(Tarsos)へ(使923-30)。当地は、世界主義のストア派の1大拠点(西洋史、405)。以後約9年間彼の消息不明、その間に彼はストア哲学に接し、アレクサンドリアのフィロン訪問も可能であっただろう。[15] そして恐らくこのころからイエスの誕生物語や奇跡行為などの形而上的、神話的部分が創られていったものと思われる。

ペテロはパウロとの会見後、宣教旅行に出る(使932ff.)。その途上、「主」がペテロに「あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥」を「屠って食べ」てよい、「清くない物、汚れたもの」はない、と(使109f.)。食物規定の「汚れ」の破棄、即ち律法破棄で、ユダヤの世界市民化である。このあとペテロはカイサリア(Caesarea)で「異邦人」の百人隊長を訪問し、「神」は「どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならない」と示したと語り、さらに「神は人を分け隔てなさらない」、「どんな国の人でも[・・・]神に受け入れられる」といい、隊長たちに未割礼のまま洗礼を授ける(使10281117)。イエスの命令破り、大律法破り、ユダヤの神の世界解放、即ちユダヤの世界主義化である。この種の行為はパウロが先行した可能性は否定できないが、イエスの筆頭弟子ペテロのそれが記録されてこそ教会の権威が保たれる。

エルサレムの教会にはなおも「異邦人」に「割礼」を、「律法」順守を、と譲らない人たちがいる(使155)。この件で48年ごろエルサレムで使徒会議があり、結果、「異邦人」には「偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けること」以外、「一切」「重荷を負わせない」と決定される(ガラ21f.;使15章)。律法の事実上の破棄、即ち世界主義の機関決定で世界的ヘブライズムの成立である。

パウロは使徒会議後8通の書簡を執筆、その中で律法破棄、ユダヤの神の世界解放、四海同朋的世界主義を明記する。

律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています(ガラ3105356/58年執筆) / わたしたちは[・・・]律法から解放されています。(ロマ7656/57年執筆);「神はユダヤ人だけの神でしょうか。[・・・]。異邦人の神でもあります。(ロマ329/ もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人(Scythian)、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。(コロ3115062年執筆)[16]

 

おわりに

66年、律法と神殿下のユダヤ本流は宗主国ローマに蜂起するがメシアは現れず70年惨敗。キリスト教徒は不戦、エッセネ派は参戦し消滅したと見られる(旧約、195ナド)。

福音書「マルコ伝」(Mark)は64年から70年代の作、「マタイ伝」(Matthew)と「ルカ伝」(Luke)は75年から90年の間。これら3書は内容、構成で類似点が多く共観福音書という。「ヨハネ伝」(John)は90年代終りまでの作で、多くの点で前3書と異なる。「使徒行伝」はパウロの弟子ルカが、80年から90年の間に「ルカ伝」の続編として書く。マルコはさておき、他の福音書記者たちはみな神殿の炎上を見ている。マタイはイエスの命令「異邦人の道に行ってはならない」を書き留めると共に、マルコ同様、復活のイエスによる世界宣教命令も記す(マタ2819;マコ1415;ルカ2445-49も参照)。彼らの狙いは、パウロの宣教旅行に見られるように、「神の子イエス・キリスト」(マコ11)の世界支配、即ち精神上の「全世界の全民族を一に」あったのであろう。教会創設はペテロたちに負うが、ユダヤ世界主義の主功労者はパウロである。

132年ユダヤは律法体制下で再びメシア預言の成就者を担ぎ出してローマ帝国に蜂起、135年敗北、民族は亡国する。それから257年後の392年、ギリシア・ローマの神々はユダヤの神に国教の座を明け渡す。ローマはユダヤに精神で完敗したのだ。世界主義的ヘブライズムの確立で、の世界主義はヘレニズム世界主義の吸収なくして発生し得なかったのであり、この意味でヘレニズムがヘブライズムを生んだといえる。ディオゲネスの蒔いた種はパウロが咲かせた。

 

引用文献(下線部で著書・論文の略語とする)

アルニム編『初期ストア派断片集』全5冊、中川純男他訳、京都大学、20002006

エールリッヒE. L.『イスラエル史』馬場嘉一・馬場恵二訳、日本基督教団、1962

グッドイナフ『アレクサンドリアのフィロン入門』野町啓他訳、教文館、1994

グリマル、ピエール『セネカ』鈴木暁訳、白水社、2001

クルマン、オスカー『イエスと当時の革命家たち』川村輝典訳、日本基督教、1972

ケスター、ヘルムート『新しい新約聖書概説 』井上大衛訳、新地書房、1989

ケスター、ヘルムート『新しい新約聖書概説 』永田竹司訳、新地、1990

シェンク、ケネス『アレクサンドリアのフィロン』土岐健治・木村和良訳、教文館、2008

ジュニアP. K. マッカーター他『最新・古代イスラエル史』池田他訳、ミルトス、1993

タキトゥス『同時代史』(105頃)國原芳之助訳、筑摩、1996

ブライト、ジョン『イスラエル史』新屋徳治訳、聖文舎、1981

プルタルコス倫理論集(モラリア) 7』田中龍山訳、京大学術出版会、2008

プルータルコス『プルターク英雄伝』(後105-115)全12冊、河野訳、岩波、1952-56

ブルトマン『イエス』川端純四郎・八木誠一訳、未来社、1963

ヘンゲル1M・ヘンゲル『ユダヤ教とヘレニズム』長窪専三訳、日本キリスト教団、1983

ヘンゲル2M・ヘンゲル『ユダヤ人・ギリシア人・バルバロイ』大島訳、ヨルダン、1984

ヨセフス、フラウィウス『ユダヤ古代誌』全6巻、秦剛平訳、筑摩、2000

ヨセフス、フラウィウス『ユダヤ戦記』全3巻、秦剛平訳筑摩、2002

ラエルティオス、ディオゲネス『ギリシア哲学者列伝』全3冊、加来彰俊訳、岩波、1984

荒井章三他編『カラー版聖書大事典』新教、1991

出隆「コスモポリテースの倫理思想」『岩波講座倫理学 第九冊』岩波、1941

旧約新約聖書大事典編集委員会編『旧約新約聖書大事典』教文館、1989

京大西洋史辞典編纂会編『新編 西洋史辞典 改訂増補』創元社、1994

キリスト教大事典編集委員会『キリスト教大事典』教文館、1995

山川偉也『哲学者ディオゲネス 世界市民の原像』講談社、2008

全国歴史教育研究協議会編『世界史B用語集』山川、2008

『聖書 新共同訳 旧約聖書続編つき』日本聖書協会、1996



 本稿は20131019日、山口大学で開催された日本英文学会中国四国支部第66回大会で口頭発表した原稿に加筆修正したものです。

[1]  パウロ(Paul)の職業は「テント造り」(使183)。

[2]  Hebraism: the Hebrew method of thought or system of religion, Judaism (Oxford English Dictionary [OED]).

[3] 引用文の該当箇所は、呉茂一・井上一彦訳「アウリスの〜」、田中美知太郎他訳『ギリシア悲劇全集』(第四巻、人文書院、1963467頁)で見つかる。出隆は上記括弧内の典拠を「(三)Euripides, Iphig. Aulid. 1400」としているが、‘Aulid’ ‘Aulis’の誤り。「アウリスの〜」の英語訳:< http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Eur.%20IA%201400&lang=original>ちなみに、OED ‘Barbarian’を引くと、出隆と同様の結果が得られる。

[4] アリストテレス『国家学』で、出隆が指摘している箇所は、山本光雄訳『政治学』(岩波、198933)で見つかる。『国家学』英語訳:< http://classics.mit.edu/Aristotle/politics.1.one.html >

[5] ディオゲネス・ラエルティオス(Diogenes Laertius)『ギリシア哲学者列伝』英語訳

< http://classicpersuasion.org/pw/diogenes/ >

[6] 括弧内の英語訳はhe brought together into one body all men everywhere’(典拠:

< http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Plutarch/Moralia/Fortuna_Alexandri*/ >

[7] ゼノン『国家』の言及は下記英語訳から:

< http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Plutarch/Moralia/Fortuna_Alexandri*/ >

[8] 典拠、『断片集4』206頁。この断片の引用元は「フィロン『世界の創造について』」(英語訳:< http://www.earlychristianwritings.com/yonge/book1.html >)。該当箇所は、野町啓・田子多津子訳『世界の創造について』(教文館、2007142f.頁)で見つかる。なお同訳書11頁に「世界市民」があり、訳注に「フィロンのこの箇所は年代上、この語の初出例と考えられる。」(69

[9] 木村建治・岩谷智訳『キケロー選集12』岩波、2002344頁。『トゥスクルム荘〜』英語訳:< http://www.gutenberg.org/zipcat.php/14988/14988-h/14988-h.htm >

[10] 「追放について」英語訳< http://www.gutenberg.org/files/23639/23639-h/23639-h.htm#Page_378a >

[11] 鹿野治助訳『人生談義』岩波、上、44頁。英語訳:

< http://classics.mit.edu/Epictetus/discourses.html >

[12] イスラエルの歴史とヤハウェ宗教はモーセに始まる(62;ブライト、121161f.)。

[13] イスラエル民族の統一王国は前922年にイスラエル王国とユダ王国に分裂。前者は前721年滅亡しアッシリア捕囚に、後者は前586年滅亡しバビロン捕囚に。民族は亡国したが、538年ペルシアのクロス2世がユダ族を捕囚から解放し、ユダ(ユダヤ)への帰国と神殿再建許可。以後イスラエル民族は徐々にユダヤ人と呼ばれ、ヤハウェ信仰もユダヤ教と。エズラとネヘミヤは共に445年頃の人で、バビロン捕囚からエルサレムへ一時帰還し如上の改革を遂行した。

[14] The uppermost idea with Hellenism is to see things as they really are’ (Matthew Arnold, Culture and Anarchy. (Tokyo: Kenkyusha, 1970, 131)

[15] フィロン(前2545/50頃)は「ギリシア化したユダヤ人」(グッドイナフ、652f.)で「ヘブライの伝統とストア思想との融合に努め」た(グリマル、22)。彼とパウロ(?65頃)とは互いの影響のし合いが指摘されるほど両者の距離感には近いものがある(シェンク、144f.)。

[16] 「コロサイ信徒への手紙」(Colossians)は「実質的にパウロに由来する」(旧約、488)と「パウロに近い弟子」の作(大貫、875)の見解がある。